2013年9月11日水曜日

宮田義矢(研究協力者)「済南回族武術調査」

済南回族武術調査(20112)                     宮田義矢

報告内容
2011222日~28日にかけて、回族武術調査のため山東省済南市を訪れた。期間中、回民小区内の清真寺において回族武術の伝承状況についての聞き取り調査を実施したほか、済南発祥の民間宗教、道院の旧址を訪問した。そこで本稿では、まず中国イスラームとの関わりと絡めてこの民間宗教の紹介を行い、後段で回族武術の伝承状況について報告する。

民間宗教と中国イスラームの関係
「民間宗教」という語の示す内容は非常に幅広い。例えば、『中国思想文化事典』の「民間宗教」の項目には、「民間信仰」、「淫祀」、「邪教」に並んで、「回教」などの歴史的「外来宗教」までもが含まれているi。この場合の「民間宗教」は、伝統的な「三教」(儒教・仏教・道教)のように王朝より継続的な認可を得てきた宗教に祭祀や教団を意味する。こうした広義の用法以外に、「民間宗教」には、いわゆる「邪教」(無論この呼称は政治的なレッテルにすぎない)―例えば羅教や白蓮教、一貫道のような宗教―を指す限定的な用法もある。本報告も一先ずこれに倣い、「民間宗教」を後者の意味で用いているii
済南市中区上新街に位置する山東省文物考古研究所(旧山東省博物館)は、かつて済南を本拠とした民間宗教道院の総本山済南母院の旧址iiiである。調査地であった回民小区と、道院旧址は直線にして500mほどの距離にある。あるいは距離的に近しいだけではなく、往時には一定の接触があったのかもしれない。道院は、創立時(1921)より宗教的普遍主義を標榜しており、項橐(孔子の師)、仏陀、老子、キリスト、ムハンマドといった聖人を祀り、儒教、仏教、道教、キリスト教、イスラームの五大宗教の一致を説いた。そして、「五教合一」と呼ばれるこの教義の具体的なあらわれとして、教団成立時の信徒に、「基督教徒」と「回教徒」が一名ずつ加わっていたことを記録に残しているiv。この回教徒は、後の山東省長唐仰杜(回族、1888?-1951)である。また、道院は、その後も宗教的普遍主義実践の一環として、五教の経典研究を進めるなどしていたが、成果の中にはイスラームの教義紹介や『天方性理』のような回儒の著作の読解も含まれており、この方面に造詣の深い人物(回族であろう)が教団に参加していたことが了解される。
著者は、道院に少なからざるクリスチャン(例えば中国YMCAの創設者の一人である王正廷が有名である)が入信していることは意識していたものの、ムスリムでありつつ、こうした民間宗教に身を投じた者があったことには、これまで、さほど注意を向けていなかった。民国期の民間宗教が、競合相手/モデルとしてキリスト教を強く意識していたことは、多くの研究者が指摘しているところだがv、イスラームとの関係については、国内に「回教」が存在しているにも関わらず、民間宗教と縁遠いものと見なされているためか、これまで言及されたことはほとんどない。しかし、民国期以降、宗教的普遍主義を唱える民間宗教(道院、一貫道、徳教など)があいついで現れ、そこには必ずイスラームに対する言及があったのであり、また道院の事例に見るように回族の民間宗教への参加があったことなどを考えると、両者の関係についても当然、意を配る必要性が強く感じられる。今次の調査で得られた気づきの一つである。

回族武術の伝承状況
自衛のための手段として回族内で伝承されていた回族武術が、広く普及されるようになるのは主に中華民国期以降のことである。民国初年以来、富国強兵政策の一環として、学校教育における体育課程の一部に武術が導入され、また民間においても多くの武術団体が創設されるなど、武術教育に対する社会的なニーズが高まった。南京国民政府下では、官弁の武術教育機関である「国術館()」の設置が全国的に進められた。1928年、張之江、蔡元培らが発起人となり創設された南京中央国術研究館(南京中央国術館の前身)は、その嚆矢である。教師として各地から招聘された著名な武術家の中には、多くの回族が含まれていた。当初、設置された武当門、少林門viの二大教務部門の内、少林門は門長に王子平(回族、1881-1973)、科長に馬英図(回族、1898-1956)と馬裕甫(済南回族、1901-1969)が就任するなど、回族が要職を占めていた。そして、彼らの修めていた査拳、八極拳等の回族武術は、国術館の教授科目に据えられたvii
済南における武術活動の盛り上がりも、こうした趨勢と連動している。済南は、中華民国期に済南鎮守使であった馬良(回族、1875-1947)が武術家招聘策(1915)を実施して以来、山東における武術伝承の中心地の一つとなったviii。済南の別称である「跤城」(摔跤の強豪都市)の呼び名も、この時期に育成された選手―多くが回族―が、192030年代に全国各地の摔跤大会で上位入賞を果たしたことによって済南にもたらされたものであったix。回族武術の伝承状況を調査する上で、済南が適地の一つであると考えられる所以である。
本調査では、摔跤名家M(元施設管理員、退職)、清真寺教長J氏らに回族武術の伝承状況について聞き取りを行うことができた。摔跤名家M氏の父親は1950年代に、いくつもの摔跤大会で優勝を成し遂げた、済南を代表する摔跤家である。またM氏自身も北京体育大学で摔跤を学び、それを職業とすることはなかったものの、現在も済南で摔跤の教授に努めている。聞き取りにはM氏の門弟が三人同道しており、年長のT(会社員)1980年代に山東省の摔跤大会で優勝した実力者だという。聞き取りの中で、印象深かったのは、摔跤世家として知られるM氏の一族から、バスケットボールチームの監督(M氏の三人の従兄弟)が輩出されているということであった。武術分野での回族の活躍についてはよく知られているが、スポーツ分野における回族のそれについては、これまで聞いたことがなかった。実は、M氏一族は摔跤だけでなく、1950年代よりバスケットボールにも注力してきたのだという。摔跤とバスケットボールという組み合わせは異色に思えたが、いずれも一族で取り組み、楽しんできた活動であり、摔跤世家だから必ず摔跤の道に進まなければならないというわけではなく、社会のニーズや個々人の嗜好に従って、職業に結びつくものを選択してきたようである。実際、北京体育大学に進んだM氏は摔跤とレスリングを専攻したが、同大学に進んだ彼の従兄達はバスケットボールに転向したという。彼らは、後に軍のバスケットボールチームに所属し、さらに監督へ転身を果たした。摔跤を専攻したM氏ではなく、バスケットボールを選んだ従兄弟達がそれを職業となしえたことは、やはり、社会的なニーズと関わりがあるだろう。
もう一人のインフォーマントであるJ氏によれば、済南では1970年終わりから80年代初めにかけて、多くの武館や体育社が設立され、武術活動も盛んであったという。文革終了後、停止を余儀なくされていた武術活動が息を吹き返したということであろう。清真寺内にも、武術練習場が併設されており、1990年代までは活動が継続されていて、上述のM氏も清真寺の「体育倶楽部」で摔跤を教授していたそうである。そのほか、J氏自身も、伊斯蘭経学院に在学時(1980年代前半)には、中央国術館の卒業生である周子和(回族1913-1996)より、教育の一環として武術を学んでいたという。武術伝承の一つの中心が清真寺等の宗教施設であったことがあらためて了解される。しかし、武術活動が再開されてから30年余りが経過した現在、一般的にいって武術を学ぶ青少年の数は大きく減少しているという。J氏によれば、その理由は、青少年の絶対数が減少しているほか、「親が子供に辛い思いをさせてまで武術を習わせたくないのだろうし、あるいは勉強など、ほかにさせるべきことがあるから」だという。努力に見合った結果(社会的な成功という意味での)が、武術からは得にくくなくなったということなのだろう。武術も数ある立身の道の一つであるとすれば、武術が職業とが結びつきがたい状況が続く限り、取り組む者の減少は避けられない。摔跤世家から、武術教師ではなく、バスケットボールの監督が三人も輩出されていることが、武術不遇の状況を象徴しているようにも思われる。J氏は、回族武術が「失伝する」かもしれないという見通しを述べていた。回族文化の重要な一部である武術が、今後どのように伝承されていくのか、注視し続ける必要があるだろう。



i 溝口 雄三/丸山 松幸/池田 知久編『中国思想文化事典』東京大学出版会、2001年、308-315頁。
ii ただし、広義の/限定的な用法にせよ、「政治的」な扱われ方が区分の指標となる「民間宗教」(特にその「民間」)概念は、現在批判的に捉えなおされている。「popular religion(「民間宗教」)」、「communal religious traditions(「共同体の宗教伝統」)」等の議論では、非エリート・民衆のみの領域として「民間」を考えるではなく、官民を問わず広範な社会階層の人々に共有された領域、また「主流/非主流」を問わず複数の宗教伝統・宗教者が乗り入れ合う領域として民間を想定している。なお、中国をフィールドとする民間信仰、民間宗教に関する議論を把握するのに便のある近年の著作として、以下の二冊を挙げておく。丸山宏『道教儀礼文書の歴史的研究』汲古書院、2004年。路遥等著『中国民間信仰研究述評』上海人民出版社、2012年。
iii 敷地内には道院の建築物が現在も残っており、入口脇の石碑に「全国重点文物保護単位 万字会旧址 二〇〇六年五月二十五日」とあるように、重点文物として保護対象となっている。なお、「万字会」とは道院の慈善専従部門「世界紅卍字会」を指す。
iv 興亜宗教協会編『世界紅卍字会道院の実態』興亜宗教協会、1941年、12頁。
v 例えば、宋光宇「教派():世界紅卍字会」『宋光宇宗教文化論文集()』仏光人文社会学院、2002年、487-560頁。
vi 創設当初の中央国術館は中央国術研究館といい、教務組織は武当門と少林門の二大門が設けられ、各門下には「科」が置かれていた。しかし、両門の教員の私闘が原因で門制は廃止され、1928年7月頃より、教務処、編審処、総務処の三処制により運営されるようになった。林伯原『中国武術史』五洲出版社、1996年、448頁。
vii 査拳は西域出身の査姓の人物(査尚義ないし査密尓と伝えられる)によって明代あるいは清代に創始されたといい、発祥地とされる山東省冠県はもとより各地の回民コミュニティに現在も伝承が見られる。八極拳も、清代に河北滄県孟村鎮(今の河北省孟村回族自治県)の人、呉鐘(回族、1712-1802)によって創始された武術である。「武術の郷」と称される同地一帯で広まった後、回族・漢族を問わず著名な武術家を輩出した。
viii 張利・金之勇「“跤城”済南的由来」(伊牧之主編『済南回族武術』済南市伊斯蘭教協会、2009)32頁。また、張利「山東済南近代回族武林英豪譜」(同上書)84頁。『済南回族武術』は、済南市伊斯蘭教協会が発行を続けている雑誌『済南穆斯林』から、特に武術についての文章を集めて出版したものである。

ix 張利「抗戦前中国摔角戦績」(同上書)5459頁。

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